狂言師 小笠原匡

コラム

狂言に出会って

 知り合いの家に盗みに入り、隠れたつもりの盗っ人。 見破られているとも知らず、主人から「あれは犬じゃ」「いや猿じゃ」と言われる度に物まねをし、散々いたぶられる。 その揚げ句に「あれは鯛じゃ」。「鯛の鳴いたのを聞いたことがない」と弱り果て 「鳴かずば鉄砲で撃ち殺す」と脅されると、「タイタイ、タイタイ」。

狂言「盆山」の“オチ”。600年以上も続く笑いの芸。 初めて観る人をも、思わず笑いに誘う間口の広さ、それが狂言の魅力です。

そんな狂言の魅力に出会ったのは、私が高校生の時。 普通のサラリーマン家庭で生まれ育った私は、それまで狂言と全く縁がありませんでした。 高校の恩師の知人が、萬先生の素人のお弟子さんとあって、古文の授業で能や狂言の話をしてくれ、 興味を持ったのがきっかけです。

初めて観た狂言の舞台はとても新鮮で、面白く、カルチャーショックを受けました。 スケールが大きく、豊かで、豪快で、こせこせしていない。 しかも、たった二人でもみせる狂言の表現力は素晴らしく、その雰囲気に魅入られてしまったのです。
そして、“自分もやってみたい”と、恩師に紹介していただき、万之丞先生の不肖の一番弟子になりました。

野村万蔵家の内弟子として狂言を学び、2年間で「舟ふな」のシテを演じられるまでになって、 国立劇場の能楽(三役)研修第二期生に応募しました。 狂言の募集はちょうど和泉流で、萬先生が主任講師でした。 もう素人の弟子を取っていなかった萬先生から狂言を教わることができたことは、 とても幸福だったと思います。
「狂言は美しくなければいけない。能舞台に存在するには表現できる体がなければ」と、 謡と舞をみっちり教えて頂きました。 舞台に立つチャンスは少なかったですが、基本をみっちりやったことが、今役に立っていると実感しています。

六年間の研修を修了し、万之丞先生から狂言師として一本立ちを許されたのは、その3年後。
「三番叟」を披き独立しました。本当に嬉しかったです。 先生から教わり、自分なりに稽古をつみ重ねました。 そこまでたどりつけたのも、謡いや舞の稽古が苦にならなかったし、狂言が好きだったからだと思います。 もちろん辛いこともありましたが、いつもほんのちょっと、狂言が好きという気持ちが上回っていました。

現在は、野村万蔵家を母体とする『萬狂言』の関西代表として、和泉流狂言の普及、伝承のために活動しております。
和泉流狂言が東京、名古屋、北陸中心で、ゆかりの深い関西に基盤をもたないのは寂しいので、 関西にて居付きで活躍するようにと師匠に命ぜられ、単身大阪へやって参りました。 当初、関西には知り合いもいませんでしたので、どうなるのか見当もつかず、当たって砕けろでした。
大阪は人情味が厚く、とても住み心地のいい街です。肩書きや名前にこだわらず良いものを認めてくれる土壌があります。 私がいい舞台を演じれば、必ず受け入れられていくと信じて頑張って参りました。

お陰さまで、徐々に支持して下さる方が増え、公演を重ねるごとに、その手ごたえを実感しております。 私の夢は、和泉流がこの地に浸透して、裾野が広がっていく礎になることです。 百年後、関西に和泉流あり!と言われるような未来をめざして、これからが本番です。

また、関西に来て、初めて教えるということを経験しました。 それまでは、師匠から教わることだけに集中してきただけに、教えることで教わったことの意味がよく分かってきました。 習いっ放しでなく、次の人にバトンを渡すことができなくては本当の狂言師ではないと、先生から言われましたが、 ご期待に沿わねばと思っています。

『私が狂言に魅せられたように、一人でも多くの方にカルチャーショックを与えて、狂言の魅力を伝えたい。』 そんな気持ちで舞台に立つかたわら、狂言教室やワークショップを通じて、 たくさんの方に狂言を体験してもらうことでアマチュアの底辺を広げ、そしてプロの狂言師の育成にも力を注いで参りたいと思います。

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