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コラム

日本における伝統芸術の継承者の育成について

(桜美林大学にて講演)

一、日本固有の芸術文化「狂言」とは

御存じの通り「狂言」は、日本で最初にユネスコ世界無形文化遺産に認定された、我が国が誇る世界が認めた芸術文化である。しかし、残念ながら敷居が高い、難解であると思われ、日本人でも中々狂言に触れる機会が少ないのが現状である。

私はまず、教育機関において「狂言」の授業を行なう時には、日本全域の文化力向上、底上げをスローガンにし、未来を担う若者達の日本人力向上、国際人としての成長の一助にしたいと考えている。また企業の新入社員教育として「狂言」が取り上げられる時があるが、その時も、門閥外の私が伝統社会の厳しい修行を通して得た、礼儀作法や立ち居振る舞い、説得力のある腹式呼吸での表現力、困難な時代を生き抜く伝統のバイタリティーを伝えることを心がけている。

「狂言」は今からおよそ650年前に誕生した日本で最初の笑っていいお芝居、「喜劇」だ。現代の漫才・コント・落語などのルーツにあたり、その笑いは非常に斬新かつ奇抜であり、現代にも通用する程時代を超越している。しかし狂言とは漠然と能のようなもので敷居が高く難しいと考えている人が多いのも事実だ。

実際に狂言は能と一括して《能楽》と呼ばれている。何故《能楽》という総称が必要なのかというと、能と狂言は「猿楽」という母体をともにしながら、笑いを含まない重厚な歌舞劇である能と、滑稽な対話劇である狂言という、性格が異なる双生児として誕生し、以後今日に至るまで二人三脚の道を歩んできたからだ。とかく庶民的な喜劇と言えば観客に迎合し低俗に陥りがちだが、狂言は能とともに品位・格調の高さを指向し続け、2001年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)により「人類の口承および無形遺産の傑作」(通称・世界無形遺産)と宣言された。

狂言の笑い、狂言が多くの人を引き付ける最大の理由はその滑稽性にある。しかも狂言の目指している笑いは痛烈な支配者層への風刺や性的描写などと結び付けた艶笑ではなく、日常のほんの一コマでよくある、人間の中に誰しもが持っているバイタリティーに裏付けされた、野太い滑稽だと私は思う。

《能楽》の大成者である世阿弥は、狂言とは「和楽の世界」であると言っている。この「和楽の世界」を表現するための大切な要素が、三種の神器ではないが「謡・舞・語り」の三つの技術の事である。実は狂言も台本だけ読めば他愛もない「お笑い」に過ぎない。しかしなぜ狂言の演技は格調が高いのかと云うと、笑いを取るためにあざとい演技などせず、セリフや動作にゆるぎない安定感を与えている様式美だと私は思う。一見滑稽な笑劇から、真実味あふれた深い人間性が浮かび上がってくるのは、演技の質の高さが大いに関係している。つまり芸術度の高い演技を可能にする役者の身体の土台づくりは、いばこの「謡・舞・語り」に支えられていると言えるのである。

この三種の神器である「謡・舞・語り」は喜劇の写実性とは対極に位置する演技要素だ。しかし狂言にはこの様式性がその作品構成の中に非常にうまい具合に組み込まれており、写実と様式が大変仲良く共存している。まず私たちは基本訓練としてこの「謡・舞・語り」を徹底的に身体に叩き込む修行をする。上手く説明出来ないが具体的には声の調子を出したり抑えたり、身体動作の抑制などであり、一言で云えば我慢する事を学ぶのである。声の調子や動作を極端に抑制して、無駄な息づかいや所作を省いた型を身体に叩き込む事により、緊張と開放をコントロールして自然と一つ一つの呼吸や動作、セリフ、歌に沢山の思いが込められる様になり、逆に豊かな表現力が可能になる。そして次なる段階として、この技術を習得した後に今度は写実的な演技を学び、様式的写実演技を作り上げていく。規制の枠の中で演技を行う事により様式性を保ちながら、写実的セリフや動作のリアリティーを表現していくのである。これは型に技と心を注入して試行錯誤を重ねながら洗練されていく事で、同時にその様式的写実は役者がそれぞれのオリジナルとして会得し、一定の形として兼ね備えているのである。

二、大学での「狂言」の授業の実践

この「古くて新しい和楽の世界」ともいえる狂言を教材にして、学生たちに学んでほしいと思うのは、自身の創造力を磨き、豊かな表現力を身に付ける事である。私は現在、千葉大学の客員教授として、普遍教育教養科目「伝統文化をつくる」という講義を担当している。これは、千葉県内の伝説を調査・考察することを通じて、千葉房総に生きる文化を重層的に理解し、伝統芸能たる狂言を学びつつ、創作狂言として舞台化する取り組みである。

この授業の目的は、学生達が新たな創造力を培うことであり、特徴的なことで言えば、行政や地域住民とも連携・協力して行なわれていることだ。成果発表を「見る・知る・伝える千葉〜創作狂言〜」として公共文化施設で上演をしている。その運営は、千葉大学、公益財団法人千葉県文化振興財団、公益財団法人千葉市文化振興財団、NPO法人フォーエバー、市民による運営委員会をつくり、平成17年度より現在に至る10年間継続している。今までに創作した作品は「千葉わらい」「はごろもかたり」「鬼来迎」「オトタチバナヒメ」「水戸黄門と藪しらず」等、着実に実績を重ねてきた。

授業では、いわゆる裏方ともいう舞台制作についても学び、それは毎年学生の先輩たちが創ってきた伝統を受け継ぐ形にしている。新年度になると学生たちで台本作り、小道具の製作や展示物の作成などもする。学生たちは、この授業で「見る・知る・伝える千葉〜創作狂言〜」の舞台を成功させることを目指して、多くの人々に喜ばれる舞台をつくるために、さまざまなことを学び、実践していく力を養う。対外的にも千葉文化の「過去・現在・未来」を創作狂言の舞台を通じて発信していくのである。その過程は、プロの狂言師の指導のもと、狂言とは何か、をまず学び、さらに、狂言の台本の基礎となる伝説を調べて台本作りを行うとともに、舞台に用いる衣装や小道具を作成する。また、舞台実現に向けてのさまざまな運営を広い視野で共に考えることを実践している。

授業の内容は主に

  1. 伝統芸能たる狂言について学ぶ。
  2. 伝説の内容、その拡がりについて調査し、理解を深める。
  3. 狂言の舞台を理解し、その面白さを台本に反映していく。
  4. 狂言の小道具や衣装について学び、公演に用いる小道具・衣装を作成する。
  5. 舞台化に向けての営み(宣伝活動や舞台当日の役割など)について考え、実践していく。
  6. 公演を成功させる!

キーワード
 伝統文化、狂言、芸能、公演、房総、千葉、観光資源

三、日本の大学生の現状

平成16年から3年間早稲田大学第二文学部にて非常勤講師を勤め、現在私は千葉大学で客員教授として普遍教養教育科目「伝統文化をつくる」講義を担当し、また、平成24年度より、縁あって大阪の桃山学院大学国際教養学部の客員教授として講義を担当する事となり、本職である能楽を中心に神楽・雅楽・舞楽・声明・平曲・今様・白拍子・田楽・阿国歌舞伎・文楽・落語・講談・壮士演歌など、様々な日本の伝統芸能を研究考証してきた自身の活動を総括する上でも意義ある事であると考え、「比較文化研究―日本の芸能史」と題して講義を行っている。

教育の現場に立たせて頂き、成程なかなか頼もしく、積極的で大変優秀な学生が多くいる中、一方で残念にも、講義を通して感じる事は、地域伝承について全く関心・興味が無い学生の存在も少なくは無いという事である。

もちろん学生の全てが、自身が通う大学の地域出身と云う訳では無いが、これは地域のみならず母国・日本への関心とも結びついているように思う。学生達には常に自覚を促し、積極的に自己PRをして、自分の意見を述べさせ、数多く言葉を発して、周りの大人たちと対話をするよう指導しているが、目上の人に敬語が使えず、なかなかスムーズに事が運ばない。

若い学生たちにどのような方法で日本の伝統文化・芸能に興味を抱いて貰えるか、毎回講義内容について試行錯誤をしていた、がしかし、ある時、伝統文化・芸能を学んでもらう以前に、学生自身の学ぶ姿勢・意識・態度の変化が必要であると感じたのである。何故ならば、一部の学生ではあるが、挨拶もろくに出来ず、教室の中でも帽子を脱がない、平気で遅刻して来て無言で着席し、ある者は無言で席を立ち退席して行く。また常に教壇近くの席は空席で、教室の後ろにかたまりざわつく者等々、一部の学生の、ものを学ぶ姿勢の低さには正直驚きを隠せずにいた。

私は常に師より「芸は教わるものでは無く、盗むものだ」との教えを受け、これは何も伝統芸に限った事ではなく、物事を学ぶ上で当たり前の事ではないか。恵まれた環境の中、多くの学生がその御両親の助けを得て学生生活を送っているものと推察するが、与えられた四年間をどのように過ごすのかは大変重要な事だと思うのである。これまで講義中に厳しい言葉を何度も発したが、学生諸君と同じ年頃に伝統芸能の世界に身を置き日本人としての精神を叩き込まれた私が、何を云わんとしているのかを肯定的に盗み取ってもらいたいと願っていた。それは、先人が思慮深く弛まぬ努力を持って伝承してきたであろう日本の伝統文化・芸術の魂に触れながら、大学での生活を充実したものとして過ごし、国際社会に羽ばたく人材となって欲しいという切なる願いでもある。また、日本人が大切にしてきた礼節や謙譲の美徳など、精神文化についても言及して、一人前の大人として恥ずかしくないように指導してきたいと考えた。

講義の初めに、あえて危機意識を持つように、また講義を通じて母国の事を深く見つめなおす機会だからしっかり学ぶようにと指針を述べ、学生たちが退屈せぬ様に、儀式・芸能の様子をDVD映像で見せるなど工夫をしてみた。しかし残念ながら熱心に授業に取り組んでいるのは留学生か社会人聴講生で、肝心の大学生達は半分以上が積極性に欠ける授業態度で大変嘆かわしい状況もある。現代の若者に「一を云われて十を知る」や「芸は盗むもの」などと云った習う側の心得が無い。こうした心得や精神的教育は家庭内で育まれるものでもあると思うが、残念ながら学生の態度によっては、その子の家庭環境や親の教育が悪かったのではないかとつくづく考えさせられるのである。

またある時、学生向けに授業に対するアンケートが行なわれた。その回答結果に、私がアシスタントとして参加させていた弟子に対して、その接し方が厳しすぎるとの指摘があった。しかし私は、弟子との師弟関係に学生達が触れる事で、本来あるべき師弟関係や上下関係の厳しさ、物を教わる者の姿勢等を学生達に感じてもらう為にも意義ある事だと考えていた。学生の感想によるとそれが「いじめ」と捉えられていた事に失望感を覚えた。大学を卒業すれば、上下関係の厳しい社会に出るという身であるにも関わらず、「怒る」事と「叱る」事の区別がつかず、短絡的に物を考えてしまう傾向にあるのがわかる。

四、伝統文化「狂言」が伝えられること

私がこれまで教えてきた大学生たちは、何も狂言の役者を目指しているわけではない。医者になりたい人は医学大学へ行き、美容師になりたい人は美容技術専門学校へ行くが、日本の大学や専門学校で伝統文化の役者を育てる専門の教育機関は皆無に等しく、伝統芸能の役者になりたいならば、既存の家柄や役者に弟子入りすることで、その技術や心を享受できる。伝統芸能の役者とは安定した職業ではない。むしろその逆であるから、生業として選択する人はほとんどいない。では、公共の大学という高等教育機関で講義として伝統文化をとり入れる意義は何か。

現代の日本の若者達は自国の伝統文化についての造詣が殆ど無く、国際社会のステージに立った時にうまく亘りあっていけるだろうか。違う国、環境で育った者同士で何かをする時、コミュニケーションは必要不可欠で、自分は何者か、自分の考えや思いを伝えなければならない。自分はそれまでほとんど日本で形成されてきたにもかかわらず、日本の事を知らないということに危機感を抱いて欲しいと私は思う。

現代の教育ではルールを正しく覚えて、間違いなく運用する事を重視し、それらの能力を高める為の「受験」となっている感があり、偏差値教育の弊害が一番に挙げられている。芸術家に限らずどんな職業につこうと、人間として必要な素地は、豊かな創造力や、対人関係を重んじ、自分の意見をはっきり述べられる事である。その為には常に一歩先を考える力と、目上の人に接して正しく意見を述べる事が出来ることも必要だ。そうした力を養うためには伝統文化の世界は非常に役に立つと思っている。生活が現代化し、技術革新で昔の日本の物が次々と無くなっていく中、伝統文化にはそれが残されている。いわば日本人が初心に返れる場ともいえるのではないか。伝統文化自体が、飛躍的な技術革新や物質的な進歩を担えなくとも、それを実行していく人間を形成するための源として、今後も伝統文化の教育、普及に努めていきたい。

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