野村万蔵家を母体とする 「萬狂言」 関西代表 小笠原由祠 (能楽師 和泉流狂言方)のホームページです。
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トップページ > これからの活動 > 『新猿楽記』研究 其の3「散楽」とは
古代日本には、「散楽」という西域、東アジアが源流の雑伎、音楽、舞踊がありました。奈良時代には朝廷に保護されている芸能でしたが、その芸能としての多様さは素晴らしいものがあります。平安時代になると「散楽」は下野し、様々なわが国の芸能の基礎を構成しました。その後「散楽」は平安時代には寺社や街頭などで盛んに行われるようになりやがて「猿楽」と称されます。この豊かな平安の芸能「猿楽」は究極のインターナショナルなエンターテイメントで、呪師、侏儒舞い、田楽、傀儡、唐術、品玉、輪鼓、八ッ玉、独相撲、独双六、無骨有骨などという奇術や、千秋万歳ノ酒祷、福広聖ノ袈裟求といった、舞劇のようなものまであったと記されています。
古代日本に伝来した大陸の芸能。中国帝室でも古くからもてはやされ、前漢武帝のとき、安息国(ペルシア)の使者が来て、蕊軒(エジプトのアレキサンドリアまたはペルシア湾岸のレケム地方)の幻術師を献上した、という記録があります。やがて西洋の要素を加えて様々に発展し日本にも渡来しました。物まね,軽業,曲芸,幻術などを中心とする娯楽的な見世物芸で,百戯,雑技ともいわれた。渡来以前の日本にも俳優(わざおぎ)や侏儒(ひきうど)の芸能が宮廷にて披露されたことがあったが,新たに伝わった散楽は律令制では散楽戸で伝習された。散楽に関する文献は少ないが,正倉院蔵〈弾弓図〉〈散楽策問〉《信西古楽図》などから想像するに,軽業や曲芸,奇術や幻術,滑稽・物まねの三つがおもな内容であったと思われ,簡単な楽器で伴奏されたと推定される娯楽的要素の濃い芸能の総称。日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされています。
起源は西域の諸芸能とされる。何世紀にも渡って、中央アジア、西アジア、アレクサンドリアや古代ギリシア、古代ローマなどの芸能が、シルクロード経由で徐々に中国に持ち込まれていった。それら諸芸の総称として、また、宮廷の芸能である雅楽に対するものとして、「一定の決まりのない不正規な音楽」の意で中国の隋代に「散楽」と名付けられたというが、実際にはもっと古く、周や漢の時代には既に散楽と呼ばれる民間の俗楽(古散楽)が行われていたとも言われている。
曲芸、手品、幻術、滑稽物真似を内容とする雑芸。奈良時代敦煌の壁画に軽業、曲芸の図があり、『周書』などには散楽雑戯などの語がみられるから、中国ではすでに紀元前後のころに存在していたことがわかる。中国では貴族的な雅楽に対し卑俗な俗楽として広く行われた。『唐会要(とうかいよう)』の散楽の条には、俳優、歌舞、雑奏、擲剣(てきけん)、縁竿(えんかん)、激水化魚竜など多くの曲目があげられている。
日本へは奈良時代に、他の大陸文化と共に移入された。しかしそれより以前に、大陸から渡っていた可能性も否定できない。また、正倉院宝物の弾弓(だんぐう)に描かれた「散楽図」や『信西古楽図』『新猿楽記』などによると、軽業、曲芸、奇術、幻術、物真似などの雑戯であって、乱舞(らっぷ)、俳優(わざおぎ)、百戯(ひゃくぎ)とも記されており、日本に入ってきたものも中国大陸のものと同じような内容であったと思われる。
日本における散楽の歴史を紐解く上で資料となるのは、それが宮中で行われていた時代の史書『続日本紀』や『日本三代実録』などである。『続日本紀』には、天平7年(735年)に聖武天皇が、唐人による唐・新羅の音楽の演奏と弄槍の軽業芸を見たという記述がある。これが、散楽についての最初の記録とされる。天平年間のいずれかに、雅楽寮に散楽戸がおかれ、朝廷によって保護される芸能となった。天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養法会には、他の芸能と共に散楽が奉納された。しかしその庶民性の強さや猥雑さからか、桓武天皇の時代、延暦元年(782年)に散楽戸制度は廃止された。
とはいえ宮中で全く演じられなくなったわけではない。平安時代になると、宴席で余興的に行われるようになった。例えば『日本三代実録』によると、承和3年(837年)に仁明天皇が、弄玉、弄刀(今で言うジャグリングのような曲芸)の散楽を演じさせたとの記録がある。他にも『日本三代実録』には、御霊会などの余興として散楽が演じられたとする記述があって注目されるが、中でも元慶4年(880年)に相撲節会の余興として演じられた散楽は、演者がほとんど馬鹿者のようで、人々を大いに笑わせたとある。当時の散楽師が曲芸だけでなく、今の狂言に通じる滑稽物真似的な芸もしていたことが窺える貴重な記録である。
散楽戸の廃止で朝廷の保護を外れたことにより、散楽は寺社や街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れるようになっていった。そして都で散楽を見た地方出身者らによって、日本各地に広まっていった。やがて各地を巡り散楽を披露する集団も現れ始めた。こういった集団は後に、猿楽や田楽の座に、あるいは漂泊の民である傀儡師たちに、吸収、あるいは変質していった。
応和3年(963年)、村上天皇により、宮中では散楽の実演は全く行われなくなった。以降、散楽という言葉に集約される雑芸群は、民間に広まった様々な職業芸能に引き継がれていく。鎌倉時代に入ると、散楽という言葉もほとんど使われなくなった。
散楽は伝来当初は雅楽寮の楽戸(がくこ)で養成されていたが、平安初期の782年(延暦1)に散楽戸は廃止となり、国家組織から外された。しかし、滅亡することはなく、平安時代には一般に流布し、宴会の場や祭礼などに盛んに行われ、散楽法師とよばれる専門の者が生まれた。しかし、散楽芸の中心であった曲芸、軽業、奇術などは鎌倉時代になってしだいに衰え、田楽法師や放下師などの手に移り、のちには獅子舞、太神楽、寄席に伝えられ今日に残った。散楽の中心芸がこうした推移をたどるのと並行して、散楽は猿楽と名称が変化し、しだいに猿楽という文字に統一され、芸内容も滑稽物真似や歌舞を中心としたものに変わっていった。この猿楽が鎌倉時代に発展して能と狂言を創造したのである。
もともと散楽は寺社の祭礼で演じられ、国土安穏・天下泰平を祈祷する事を主な目的としていた。 その後いつしか、一般庶民の娯楽となり、散楽が訛って猿楽となる。大道芸としての道を歩んだ猿楽は、散楽よりもより大道芸的な要素の濃いものになり、また、猿楽とは別に、散楽と農村で行われていた楽芸とが結びついてできた、「田楽」というものが現れた。この芸能は、もともと農村の田植えを囃し立てる為に生まれ、発展した。その後、散楽は日本古来の芸能の影響を受けて、やがて猿楽と言う芸能に発展し、そこから台詞と仕草による滑稽な物まね芝居が「狂言」へ、音楽と舞踊による活劇が「能」になった。猿楽と田楽は現在の能・狂言へと向かって融合・発展した。
曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれた。滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていった。奇術は近世初期に「手妻」となった。
散楽の内容は、主に曲芸や軽業、物まね、呪術、奇術など。今の中国雑技団のような曲芸や軽業、猿の物まね、「火を吹く術」「刀を呑む術」といった呪術を見せたりと、多種多様な芸があった。散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれていった。このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響には計り知れないものがある。
其の3 「散楽」とは
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