野村万蔵家を母体とする 「萬狂言」 関西代表 小笠原由祠 (能楽師 和泉流狂言方)のホームページです。
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トップページ > これからの活動 > 『新猿楽記』研究 其の2「猿楽」とは
7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった
奈良時代
中国大陸から伝わった散楽が猿楽のはじまりと考えられている。散楽の具体的な内容は史料が少ない為にはっきりしていないが、正倉院宝物の「墨絵弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った。
平安時代
延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった。
この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。平安時代の末に藤原明衡が著した『新猿楽記』には、「福広聖の袈裟求め・妙高尼の襁褓乞い」「京童のそらざれ・東人の初京上」のような演目が並んでいる。僧侶が袈裟をなくして探し回る、独身の尼さんに乳児用のオムツが必要になる、口の上手な京童とおのぼりさんの東人の珍妙なやりとり、といった寸劇が演じられ、都の人たちが抱腹絶倒していた様子が伺える。また同史料には、咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、咒禁道の影響を受けた儀式を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが翁猿楽へと発展したのではないかとの説もある。
鎌倉時代から室町時代
鎌倉時代には平安時代に成立した初期の猿楽とは異なる芸態の猿楽が出現した。現行の翁に相当する翁猿楽である。永仁5年(1297年)に書かれた『普通唱導集』では、もっぱら翁猿楽について言及しており当時の猿楽が翁猿楽を本芸としていたことを物語っている。
翁猿楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、猿楽は寺社との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団も各地に現れた。一部の猿楽の座は、寺社の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、寺社の祭礼の中に猿楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、猿楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている
神楽より
申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。
其の2 「猿楽」とは
「新猿楽記 cirque de kyoto」プロジェクトとは
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