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トップページ > これからの活動 > 『新猿楽記』研究 其の1「新猿楽記」とは
平安中期に藤原明衡によって記された書物で、日本で最古の芸能を列挙した往来物の祖とされ、「猿楽」芸に関する最古の書。その前半に,平安時代中期とみられている猿楽者の百丈,仁南,定縁,懸井戸先生などの芸評や,猿楽雑伎として咒師 (のろんじ) ,侏儒舞 (ひきひとまい) ,田楽,品玉 (しなだま) などの曲芸や「福広聖之袈裟求 (ふくこうひじりのけさもとめ) 」や「妙高尼之襁褓乞 (みょうこうあまのむつきごい) 」などの滑稽物まね芸の名称があげられている。本書の成立期は未詳であるが,平安時代後期と考えられている。
作品の序章部分に猿楽見物の状景描写があることから、従来、芸能史の一資料としてあつかわれることが多かった。しかし作品の大半は、総勢四十余人にも及ぶ「右衛門尉」一家の、構成員個々人のなりわいに関する記述に費やされている。
平安中期のステレオタイプ職業図鑑。猿楽を見に来た一家の職業や素性を、シモネタ含む辛口評論で活写していく。『源氏物語』と同時代の作品であるが、みやびな宮廷文学とは正反対の、泥臭くてユーモアあふれる平安時代人がこれでもかと書かれているのは『新猿楽記』くらいなものだろう。
平安時代の華やかな王朝貴族社会を下支えした庶民達の貴重な記録であり、平安時代の日本の本当の姿。庶民の創造とエネルギーが生み出した様々な事象。
元々儒家の出身でないため対策(文章得業生となるための試験)に合格するのに歳月を要し、長元5年(1032年)にようやく合格し左衛門尉に任命された、対策制度の因習を苦々しく思い、後輩に対策の答えを密かに教え二度にわたり罰せられた事もある。その後、後冷泉朝にて式部少輔・文章博士・東宮学士・大学頭等を歴任し、従四位下に至った。
詩文に秀で『本朝文粋』『本朝秀句』を編修し、『新猿楽記』『明衡往来』等を著している。
子の敦光,敦基が文章博士となり,院政期に学問の家としての藤原式家を確立した。後冷泉朝の文人の第一人者として年号や皇子の名の選進,表や願文の制作,作文会での詩作に活躍した。その詩文は『本朝続文粋』『本朝無題詩』ほかに100首に近い作が残るが,最大の業績は『本朝文粋』の編纂である。平安朝の文章の精粋432首を全14巻に収めるアンソロジーの編者として不朽の名を残した。また書簡の模範文例を集めた『明衡往来』(『雲州消息』とも)は往来物の先駆をなす。さらに当時流行した猿楽と見物の人びとの描写を通して時代を活写した『新猿楽記』がある。伝統の継承者として活躍するとともに新しい時代の胎動を的確に捉えた作品を書き,独自の位置を占めた。
藤原式家(ふじわらしきけ)とは
右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した。
ある晩京の猿楽見物に訪れた家族の記事に仮託して当時の世相・職業・芸能・文物などを列挙していった物尽くし・職人尽くし風の書物である。その内容から往来物の祖ともいわれる。
成立
正確な成立時期は不明である。通説では作者藤原明衡の晩年である天喜年間(1053年 - 1058年)あるいは康平年間(1058年 - 1065年)とするが、長元元年(1028年)とする説もある。いずれの説も推測の域を出ない。冒頭の作者署名に右京大夫と官名が記されており、明衡が右京大夫に任官した記録は他にないが、事実とすればこれが彼の極官であったことから、晩年の作であろうとする見解が多いだけである。中級貴族
あらすじ
作者はある晩京の猿楽見物をする。それは今までになく見事なものであった、として猿楽のジャンルを列挙し、また名人の批評を行う。猿楽見物に参集した人々の中で特筆すべきは右衛門尉(うえもんのじょう)一家であった。右衛門尉の3人の妻、16人の娘(あるいはその夫)、9人の息子の描写が始まる(以下、各段の紹介)。
猿楽技芸
猿楽の中でも大笑いをさそうものとして、以下の項目が列挙されている。
以下は対句となっていて、両極端な役や対で物語を構成している芸を列挙する。
猿楽の名人
名人についての論評を行う。この段も対になっている。また批評の形式は古今和歌集真名序のパロディである。
以下の人物については他に出典がなく不明である。
其の1 「新猿楽記」とは
「新猿楽記 cirque de kyoto」プロジェクトとは
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