野村万蔵家を母体とする 「萬狂言」 関西代表 小笠原由祠 (能楽師 和泉流狂言方)のホームページです。
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中国
紀元前11世紀以前の夏・殷代の青銅や金製の仮面などが発見されている。
韓国
インドネシア、ジャワ
ジャワ12世紀頃からインド古代叙事詩ラーマーヤナ、マハーバーラタを演じた。
14世紀にはジャワ起源パンジ物語など演じるようになる。
バリ17世紀頃ジャワより仮面が伝わる。
劇中使用言語 神々はサンスクリット語、古の英雄や王は古いバリ語、道化は現代語
ジャワ・バリ・スリランカ仮面は眼球の下、下まぶたのところに眼の形に添って眼穴が三日月形に開けられている。
チベット
チベット仏教圏唯一の独立国ブータン。
アフリカ
~アフリカの仮面~
アフリカンアートといえば仮面、仮面といえばアフリカ美術。アフリカ芸術の花形が木彫り、さらにいえば木彫りの仮面であることに異議を挟めるものはいないだろう。アフリカの美術・工芸はほかにもブロンズ彫刻や粘土塑像、多彩な染織工芸など実に多様なジャンルにわたり豊かな工芸文化が発展してきたが、それでもやはりアフリカンアートといえばまず思い浮かぶのが、他の大陸には見られない独特で強烈なデザインの木彫り、中でも仮面なのである。アフリカの仮面や彫像がその圧倒的な存在感と力強さ、西洋美術の文脈にない大胆な造形センスによってピカソやマティスに強い影響を与え、近現代西洋美術界に革命をもたらしたことはつとに知られている。
そのアフリカの木彫りであるが、その起源ははっきりとはわからないことが多い。シロアリや気候の影響で木はすぐに風化、劣化してしまい、古い物はほとんど残らないからである。しかしアルジェリアのタッシリ=ナジェールをはじめとするサハラの岩面画群には、仮面を被った人物と思われる絵(狩猟民の時代の壁画:6000~8000年前頃)が多数残されていることから、その時期にはすでに仮面文化が存在したと考えられている
また、木彫ではないが現在わかっている限り(遺物が残っている)最古クラスのアフリカの彫刻文化としては、ナイジェリア中北部ジョス高原に前1000年頃~200年頃にかけて栄えたノク文化があげられる。代表的な遺跡の名をとってノク文化と呼ばれるアフリカ最古の鉄器文化は、粘土製の彫像(人物像、動物像等)でも有名であり、これらの土偶はサハラ以南のアフリカの彫刻文化として現在遺物が残っている中では最古の物の一つである。
さらに前4Cごろ~15Cごろにチャド湖畔に栄えたサオ文化(チャド文化)においても人をかたどった粘土像がつくられ、仮面をつけた人物像と考えられている一群の粘土像はアフリカの仮面文化の貴重な資料となっている。くわえて西アフリカの大河ニジェール川流域では中・下流域一帯(マリ・ニジェール・ナイジェリア・ちょっと外れるけどブルキナファソなど)から、古いものでは紀元前2世紀頃にさかのぼると見られる素焼きのつぼ、塑像が大量に出土している。古いものがほとんど残っていない木彫品の代わりにこれらの年月を経てものこりやすい粘土塑像や青銅彫刻を通じて古い時期のアフリカの木彫・仮面文化の一端を垣間見ることが出来る。
アフリカの伝統社会の中で仮面は重要な役割を果たしている。娯楽としての仮面舞踊・仮面劇を行う民族社会もあるが、仮面の主な役割はやはり祭祀、儀式である。仮面を製作・使用する民族の祭礼・儀式では仮面が中心的な役を演じるが、その重要性ゆえに、仮面を作っているところを人に見られてはいけない、とか、女子供は仮面を見てはいけない、などのタブーをもつ社会も多い。しかしアフリカでは仮面そのものに価値を見出す社会は少ない。仮面はそれに対応する衣装、被り手の三者が祭礼・儀式(農耕祭、葬式、通過儀礼、秘密結社の儀式など)の場に現れることによってはじめて神話的・宗教的な意味を持ち、被り手(踊り手)は、人ではなく仮面に宿る精霊や祖霊そのものとみなされる。そのため祭礼が終わったあとは仮面を廃棄してしまう民族も多く(次の年の祭礼時にはまた新しく作る)、そのことは気候的な要因と並びアフリカの仮面で古いものがあまり残っていない原因のひとつとなっている(古い時代の仮面はほとんど残っていない。古くても数百年程度)。西、中部アフリカでは(秘密)結社組織を持つ民族社会が多い。そしてその多くが仮面結社としての性格を備えている。その社会では仮面を用いた儀式をつかさどるのは結社成員であり、仮面を作るのも結社の成員であることが多い。また、職業カースト制度を持つ民族社会においては鍛冶職人が本業と仮面・彫像製作を兼業することが多い。これは鍛冶師が持つと考えれている超自然的な力によるものであろう。鍛冶師は鉄鉱石の探査、採掘、精錬、鍛造といった素人目には魔法のようにも見える過程を経て、そのままでは何の役にも立たない石ころ(鉄鉱石)を加工し、日常生活に欠かせない農具から非常に大きな殺傷力を持つ鉄製の武器までを創り出すため、魔術的な力を持つものとして畏怖の対象でありながら畏れ遠ざけられてきた。いずれの場合にしてもそれぞれの伝統的民族社会の中で仮面.・彫像を作ることのできる人間というのは厳密に定められていて資格を持たない者がそれを行なうことはない場合が多い(バウレのように自由な職業選択の結果として彫刻家になる場合もある)。仮面の製作者は通常、森の奥や荒野など人目につかない場所でそれらの製作を行なう。アフリカの彫刻は、芸術家の自己表現としての芸術ではなく、常に社会的・宗教的な要請によってつくられ伝統社会の世界観と密接に結びついている。精霊、祖霊、超常力のよりしろとなるべき仮面は、アフリカ人の世界観を木から彫り出したものであり、その生命力と独創性に満ちたかたちは見る者をあきさせない。
変身の本質 おもい想念 おこない行動 しつらい装置 よそおい扮装(仮面)
隠れいている自身の中にある神性
★人間には「意識の世界(自我)」「深層心理の世界(フロイトが説く無意識)」さらにその奥には「霊層意識」がある。古代人はシャーマニズムとアニミズム的な宇宙や自然あるいは霊的な存在と直接交流が出来ると思われていた。中世以降キリスト教の抑圧により消滅。
キリスト教の中心的教理は唯一の神が人間となり給うた。という御託身(家臣が主君に対して行う服従の儀礼)の玄義にあり、それまでは仮面は地上的な存在条件を超越して神々に似せた物になろうとする人間の企てに力を貸す道具であったが、神から人間への方向で行われるようになった瞬間から仮面は存在理由を失ってしまう。
また人間の顔かたちが神聖なものである以上、その顔かたちを偽ったり、あるいは変貌させたりするような仕業は悪魔の仕業であると説いた。仮面は悪魔の術として弾圧した。
ギリシア劇廃止、コンメディア・デッラルテ誕生、謝肉祭カルネバール
仮面ほど正直な物は無く、人間の顔ほど嘘つきな物は無い。また、仮面は見えない神と見えない心を繋ぐ、人類が最初に創造した、見える装置である。
嘘をつくとき、人は皆顔の筋肉を微妙に動かしながら声色を変えて、手足身体などをうまく使って嘘をつき通そうとする。その人に仮面を被せると嘘をうまくつこうとする顔がまったく見えなくなってしまうため、かえって声や手足身体の不自然さが目立ち、その人の心の奥底にある嘘を、炙り出してしまう。仮面はまるでリトマス試験紙のようだ。
●神は何処か遠く離れた所にいる訳じゃない。何かの宗教に入らなければ神の助けがこない訳じゃない。神を信じる事は、私達が無力で弱いから神にすがる訳じゃない。神は私達の中に、そして何処にでも偏在している。神を信じる=自分自身が神と一体である事を知る事。どんな逆境の中でもどんな状況の中でも神は私達と共にいる。
●涅槃経(ねはんきょう)に一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉があります。
一切の衆生は悉(ことごと)く仏性を有している。生きとし生けるものすべてのものの中に仏性が存在する。
この言葉は非常に有名な言葉で、「山川草木悉有仏性」とも言われる。
山や川、草や木にも仏性が宿っていると解釈されることが多い。
日本においては、神道で「八百万(やおよろず)の神」という考えがあって、植物も、動物も、みな神であり、数えきれないほどの神がいると考えられてきた。
山川草木悉有仏性の考えは神道の八百万の神と合致して、これこそが日本人の価値観である。 日本人が自然を愛し、大切にするのはこの考えが根底にある。
神と仏が習合されることがいいことだという意識が、心の奥底にあるのかもしれない。
しかしながら、曹洞宗開祖道元はその考えは間違いだと言う。
「一切は衆生なり、悉有(全宇宙)が仏性なり」と解釈した。
つまり、全宇宙が仏性であって、その中に衆生が存在すると考えた。
山や川も衆生であり、仏性の中で生きている。そう考えた。
両国潔俊の中に仏性があるわけではなく、仏性の中で両国潔俊が生きているということである。どちらかというと、神道というよりはキリスト教に近いかもしれない。
●消化器官はブラックホール
消化器官は「身体の外」と言われている。私たちの消化器官は「身体の中」の細胞たちがきちんと理解して利用できるように、食物を翻訳(分解)して、情報(分子)を選んで送り込むという、隔てた2つの世界を繋ぐブラックホールのような、あるいはこの世とあの世を繋ぐトンネルのような、そんな役割をしている。
●「身体の中」は1つの宇宙空間
そして「身体の中」には、薄い粘膜で覆われた1つの宇宙空間が広がっている。
それぞれの人の身体の中はまるで地球と相似形のように、多くの水で満たされ、酸素、炭素、窒素、微量なミネラルやビタミンでできた有機体である。
そしてこの「身体の中」という地球に住む個々の細胞たちはというと、どうして自分のところに、その情報(分子)が来ているのか?自分が住む宇宙の全体像はどうなっているのか?存在も私が住んでいるこの世界の存在も知る由もない。細胞たちは、それがもともとどこから、どんな風に来た情報(分子)なのかはあまりよく知らないが、自分の住む宇宙や自分の役割は熟知しています。目の前に来た必要な情報(分子)には的確に反応して自分の中に取り込む。また自分の周囲の細胞に情報を伝えたり、遠くの臓器に必要な情報をホルモンや神経といった様々な回路を使ってメールを送ったりなど、「身体の中」の宇宙全体と情報交換をしている細胞もいる。細胞はまるで人間みたいだと思う。
そして、ひとつひとつの細胞の中を見てみるとここにも一つの宇宙があり、それは私たちの身体の中と相似しているように感じる。脂質でできた細胞壁の中には十分な水が満たされ、核という様々な情報を格納し作り出している存在があり、周囲には多様な生物が住み、DNAの情報をもとにミトコンドリアで常にエネルギーを生産しつづけている...。身体の中はまるでマトリョーシカのように宇宙構造が重なっている。そして細胞にもそれぞれ寿命があり、役目をまっとうしたら死んでいく。つまり身体の中という「この世」から「あの世」へ。別の宇宙へ行くのである。
●ミクロとマクロのフラクタル
もっと小さなミクロの世界をのぞいていくと、私たちは原子でできていて、原子はひとつひとつがまるで太陽系のように、電子が、中心核を中心にして周回する惑星のように決まった軌道をぐるぐると回っている。小さな世界になるほど大きな世界とフラクタル(相似形)になっている。さらに小さすぎて目に見えない素粒子の世界と、大きすぎて目に見えない宇宙の果ては、まるで呼応しているようで、私たち人間が素粒子を発見し可視化されていくにつれて、宇宙物理学でもこれまで発見されていなかった恒星や銀河、宇宙の仕組みが発見され可視化されていく。
このとても楽しい妄想のような考えを追っていくと、実際にミクロもマクロも全てはフラクタルな宇宙であり、全てが影響しあって繋がっている。ということが見えてくる。
もし「私たちは地球という生命体の中の細胞のひとつひとつである。」と感じられれば、それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの役目を既に果たしている。とも考えられる。
そして全てがフラクタルであり、全てがどこまでも繋がっていると考えたら...。私は地球という生命体の中の細胞のひとつで、地球は銀河系という生命体の中の細胞のひとつで、銀河系は宇宙という生命体の中の細胞のひとつで、宇宙全体がひとつの生命体であり、その生命体は私自身なのである。
●日本は世界の縮図
北海道=北米大陸。本州=ユーラシア大陸。中国地方=ヨーロッパ。瀬戸内海=地中海
四国=オーストトラリア大陸。九州=アフリカ大陸。房総半島=朝鮮半島。
紀伊半島=アラビア半島。能登半島= スカンジナビア半島。佐渡島=ノバヤゼムリャ
インドは移動してユーラシア大陸と合わさり、地殻変動でが聖地エベレストが隆起。
インドに相当するのは伊豆半島。プレートの移動で本州に合わさった島。
地殻変動で隆起した富士山という聖地。
伊勢=イスラエル
イスラエルとは「輝かしい」意味の接尾語。輝かしい伊勢。伊勢神宮をたたえる意味がある。
伊勢神宮のそばには五十鈴川があり、イスラエル川にあたる。
●脳と宇宙
マウスの脳の構造と宇宙の構造を比較した画像が極めて類似している。
脳と宇宙が似ている所はそれだけではない。宇宙の星の数は1000億前後と言われている。一方、脳の神経細胞も偶然ながら1000億程度なのだと言う。
これは偶然なのか?もしかすると宇宙の正体は、我々が想像もできないような超巨大生物の脳なのではないか?
宇宙は137億年前に誕生した。これがこの超巨大生物の誕生の瞬間だとすると、地球の生物の脳細胞は増減し、星も同様に、増減する。
こうして137億年もの間、宇宙という超巨大生物の脳は進化を続けてきた。
かなり突飛な発想ではあるが、いま我々がもっている脳内でも、脳細胞たちは、これが我々で言う宇宙だと思っているのかもしれない。
なぜなら、彼らにとっては脳という空間はかなり大きいものであるから。
世界の民族仮面
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