ヤマトタケルは、第12代天皇・景行天皇の皇子で、
奈良時代に編まれた『古事記』や『日本書記』に、
日本の東西で朝廷に従わない人々を次々と征圧していった英雄として語られ、
今でも多くの人々に知られています。
『古事記』では「倭建命」、『日本書記』では「日本武尊」とあり、
表記が定まらないのでカタカナで表しています。
中世には「ヤマトダケノミコト」とも呼ばれ(文明本節用集)、
狂言の台本の中ではこのように呼んでいます。
ヤマトタケルは西のクマソ征伐を達成したのち、
東のエミシを征伐するよう父の景行天皇から命じられます。
その足取りは、下の地図のような大遠征でしたが、この足取りも『記』『紀』では異なっているところがあります。
この創作狂言では、ヤマトタケルが三浦半島の走水から海を渡って、
房総に上陸する場面を『古事記』 『日本書記』の記述をもとに台本化しています。
『記』 『紀』の記事をくらべてみると全く同じ展開にはなっていません。
タケルの渡海を邪魔して海を荒らしたのは『紀』では「海神」 [わたつみ] 、『記』では「渡りの神」でした。
タケルを向こう岸の房総に渡すため、后のヲトタチバナヒメ(弟橘媛)は海神に身を捧げます。
『紀』の本文で味わってみましょう。
「(弟橘媛が日本武尊に言うには)今し風起り浪泌 [はや] くして、王船沈 [みふねしず] まむとす。
これ、必ず海神 [わたつみ] の心なり。
願はくは賎 [いや] しき妾 [やっこ] が身を以 [も] ちて、
王の命 [いのち] に贖 [か] へて海に入らむ」とまうす。
言訛 [まをすことをは] りて、すなはち瀾 [なみ] を披 [おしわ] けて入る。
暴風 [あらきかぜ] すなはち止み、船岸 [みふねきし] に著 [つ] くこと得たり。
故 [かれ] 、時人 [ときのひと] 、その海を号 [なづ] けて、馳水 [はしりみず] と日 [い] ふ。
(小学館新編日本古典文学全集『日本書記1』より)
東征を無事に果たしたヤマトタケルは、帰路、足柄峠に至りオトタチバナをしのんで、
「あづまはや」(我妻よ)と歎いたので、足柄峠より東を「あずま」と呼ぶようになったという「東国」の起源も語られています。
(『古事記』による。『日本書記』では碓氷峠)